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サニープレース

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2019.04.15 

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アーティストの犯罪と作品

時々ニュースになるが、アーティストや俳優が薬物に手を出したことが発覚した時、その人がかかわった作品はどうするべきだろう?
今までは、関わりのあったすべての作品の公開が中止されるか、俳優であれば出演シーンがカットされるのが一般的だった。しかし最近起こったピエール瀧被告出演の映画は、観客が見る見ないの選択ができるのだからという理由で公開に踏み切られた。「作品に罪はないから公開の中止はひどすぎる」とこの動きを歓迎している人もいるが、犯罪者が関わったものは世に出してはいけないという人もいる。これはどう考えればよいのだろう。

 

私も以前は作品に罪はないのだから公開を中止する必要はないのではないかと思っていた。ところが、テレビであるベテラン芸人の一人が言った、「ドーピングみたいなものだからなぁ。」という一言を聞いて、目から鱗が落ちるような気がして考えが変わった。

 

確かに薬物はある種のドーピングであり、もし薬物を使わなければその作品が生まれなかった可能性を完全に否定は出来ない。スポーツでドーピングが禁止されるのは、もちろんフェアじゃないからではあるが、体に負担を強いる薬を使って記録を出すことが許されれば、どんどんエスカレートして最終的には体を壊してしまう結果につながる可能性が高くなるからだと思う。仮にそれが合法だとすれば、命にかえても大きな成果をあげたいと考えて使用する人は少なからずいるだろうし、さらに怖いことは、結果を望む大きな外的圧力があった場合、使用を拒否することがとても難しくなる可能性が高くなるということだ。

 

そう考えると、薬物を使用した人がかかわった作品は、やはり表に出してはいけないものとしなければいけないのではないだろうか。スポーツ選手であれば、ドーピングが発覚した場合、いくら素晴らしい記録でもその記録は認められない。この事実に異を唱える人はいないのではないと思う。であれば、作品の場合も、「罪はない」のではなくて、「やってはいけない方法によって作られたもの」なのだから、仮にいくら素晴らしいものであっても存在してはいけないのではないかと思う。薬物使用によって素晴らしい作品が無くなってしまうのはとても残念ではあるが、それは素晴らしい記録がドーピングの発覚により取り消されるのと同じだと思う。

 

覚醒剤など、いくら悪いものでも、自分の意志だけでコントロール出来ているうちは、ある意味自己責任で、何が起こっても自業自得だ。しかし、もし違法であっても作品が残るのであれば、結果を望む人たちから使用を強要される可能性が出てくる。それは「ブラック企業」が無くならない一つの理由でもある。

注意は受けても、それまで行ったことは業績として残ってしまうから、実際それほど大きなダメージは受けないのだ。
だからこそ「発覚した時点ですべて無くなる」としなければ、意味がないのだと思う。
もしスポーツ選手の場合、ドーピングにより選手生命が失われたとしても、記録は残るとしたらどうだろう?
作品に関しても、いままでは薬物の使用によりすべて失われてきたから抑制が効いてきたのではないか。
ピエール瀧被告出演の映画の公開は、「作品に罪はない」との間違った論理のすり替えによる、非常に危ない流れではないかと感じてしまう。

 

もちろん、薬物に依存してしまう人にはそれなりの理由があり、悪いことではあるが、一方的に責める気持ちは全くない。むしろ、繊細で良い人すぎるのではないかと思うところもあるので、気の毒だと思うのだが、それはまた別の問題だ。ここをきちっとしておかないと、現代では悪い人たちに利用されてしまう。作品やファンがかわいそうだとか、関係者が大変なことになるとか、当然いろいろな事情はあるが、ここでそれらを救う事を許すと、必ずそれを悪用する人たちが出てくる。残念ながらそれが今の社会のように感じる。

 

最後に、ある作品を出した後に、薬物以外の犯罪を犯してしまった場合はどうだろう。
その作品が犯罪と全く関係がなかったとしたら、この場合は「作品に罪はない」と考え、そのまま世に出ていても何の問題もないと思う。
仮に素晴らしい作品を残した後に、殺人を犯してしまったとしても、作品を作った時点で犯罪者ではなければ、作品は世に残るべきだと思う。仮に作品を抹殺しても、何の利益もない。犯罪者のかつて持っていたすばらしい部分まで全部否定してしまう事がよい事とは思えない。

これは極論かもしれない。賛否はあると思うが、今の時点で私はそう考えている。